友人から、少し時間はあるか、話したいことがある、というようなLINEが来たので電話をかけた。その友人は、飲みに行くと必ずうちの玄関で動けなくなる。一度は玄関前でゲロを吐かれた。手の焼ける24歳である。(話していて、私が彼に私の自宅まで送ってもらった挙句トイレからパンツを下ろしたままプーさんスタイルで布団に入り、彼と同衾したと聞いた。)

彼の声は暗かった。嫌な気分にさせるかもしれないけど、と彼は切り出した。ここ最近の私の酒癖について何か言われるのかと動悸がした。

彼の知人が双極性障害を患っているそうだ。何か自分にできることはあるのか、という相談だった。


私の母は9年前、急に人が変わったかのように、夜出歩くようになった。帰宅するのは日が変わってからか日が昇ってからかだった。繋がって罵倒していた電話は繋がらないようになった。隠れて吸っていたタバコはその臭いを振りまきながら帰ってくるようになった。携帯からは男の源氏名が見つかった。東京にパーティーに行った際の高額な飲食費の領収書が見つかった。口座残高は減っていった。頻度は段々増えていった。起床は早くなった。食事は減った。それを責めると感情的どころではなく攻撃的に怒鳴るようになった。

それが数年は続いただろうか。ある日急に母は大人しくなり、欠かさなかった化粧をせず、布団から出てこなかった。翌日、死にたい、と言った。

その翌日は土曜日だった。父は私に学校を休むよう言った。リビングで朝食をとった。「ママ食べん?」「いい。」私は自室に戻ってベッドに寝そべり携帯をポチポチやっていた。救急車のサイレンが鳴っていた。


母が飛び降りた。

聞こえていたサイレンは、母を載せて総合病院に運んでいった救急車のものだった。警察の事情聴取の後、タクシーで総合病院に向かった。仕事着のままの父と、担架に載せられた母がいた。「ママなんで。」「ごめんね。」

これを書いていて初めてこの後のことが書けないことがわかった。大きな外傷はなく母は精神科の病院に入院した。確か、その日のうちに救急車で搬送していただいた。父と私も病院に行った。病室で、母の臀部に注射がうたれるのを見た。精神科は人の血を見なくて済むと思っていたけど違うんだなあと思った。病院を出て向かいのバス停から父とバスにのった。私が抱えていた白いタオルには小さな赤いシミがついていた。

母が落ちた庭を父と見た。日は沈んでいた。「お前のせいじゃないけんな。」初めて、母が飛び降りたのは私にも責任があるのではと思った。なぜあの時自室に戻ったんだろう、何のために学校を休んだんだろう。母は浴室の窓から飛び降りて庭の敷石と敷石の間に落ちた。「あの石に落ちたら生きてはなかった」と父は言った。食事を碌にとっていなかった母はその頃不自然に痩せていた。「痩せててよかったね」と2人で少し笑った。父が持つ、母がかけていた眼鏡のフレームは歪み、レンズは割れていた。「生きててよかった。」父は自分のかけていた眼鏡を片手で上にずらして、もう片方の手で両目を押さえた。


私の母は躁鬱病だ。双極性障害Ⅰ型。入院は5、6回か。今年のお正月は病院で過ごしていた。鬱エピソードは10回弱か、最も重いのは飛び降り自殺未遂、次がオーバードーズ=飲まずに隠していた薬を一気に飲んだこと。躁エピソードは最近では父の時計2本(と本人は言っている)を質に入れ、432万円を受け取っていたこと、他他他…。双極性障害にはI型とⅡ型があり、簡単に言えば躁症状が重い方がⅠ型、軽い方がⅡ型である(今、昔調べたのをひっぱってきた)。にしても躁の期間が長い、躁エピソードが多い。そんな母がここ数ヶ月穏やかに過ごしているのが信じられない。この9年間(以前10年間、と言ったのを母に訂正された。病識あるんや、と思った。これにも驚き)、母の病前の姿が思い出せず、今でも思い出せないのだけど、今の姿が本来の姿であることを願うほど、状態がいい。(おそらく本来の姿とは違うのだけど。幼い頃殴られた記憶があるので、もっとエキセントリックな人だったはずだ。その姿は失われてしまった。) そんなわけで今私が母について思い悩むことは皆無で、今回の友人の心配には及ばなかった。